かつて、私はいわゆる不登校・引きこもりといった類に該当する若者であった。
その経緯に至っては、幼い頃からの能力不足、気質、幼くして受けたイジメ、生育環境、精神的・心理的な要因等、多様な因果関係があったと内省できるのだが、ここでは割愛する。
当時、私は社会復帰への時間を要してはいたものの、全ての社会資源を拒否していたことはなく、決して心の窓口を閉じていなかったし、社会復帰への糸口を模索していたことも強調すべき1つである。
その私が、親および親と結託した民間の某 不登校・引きこもり引き出し業者によって、強引に着の身着のまま連れ出され、収容施設へ拉致されるという新たなるPTSDの始まりが我が身に降りかかった。
これは私が現在でも断じて許すまい、としている事案である。
この業者の代表である中年の女性は、無分別な根性論者であり、不登校・引きこもり本人はもちろんのこと、その親に対しても横柄な態度と汚い言葉で罵倒し、しいては親を洗脳し、こういった家族を対象に法外な金儲けを行い、マスコミに注目され、広告塔としてますます味をしめていた人物であった。
また、同時に精神科/心療内科、あるいは健全に活動している同様の不登校・引きこもりの若者を対象にした数々の団体をことごとく否定・非難をするような軽薄な人物であった。
「目は口ほどに物を言う」、まさにこの業者の広告塔であった代表の女性の目つきを見た時、どのような人物であるか分かったものであった。
そして、この人物の奇異な物珍しさを取り上げた某テレビ局と番組のカメラクルーによって、私は家族のお荷物であり悪者として、その拉致場面を本人の承諾無しで撮影され晒される、という始末であった。
数々の人権侵害と悪徳ビジネスの温床となった強制収容施設、通称「○○寮」と呼ばれた施設は、都市圏に存在した。
多数の10代の若者が連れてこられ、24時間・365日プライバシーが皆無という、私個人のパーソナリティとしては、メンタル不全となりうる極限の中での集団生活の強要であった。
この業者は同族経営であった為、実際に施設の若者に対応していた現場責任者は、息子のタカヒト(仮名)という若干20代の経歴不明で小柄な男であった。
母親が起こした人権搾取の当事業において、その施設の責任者の椅子に座らせてもらっていたのである。
そして、この息子タカヒトの右腕には、業者の思想に従順であったアルバイトの男、同じく若干20代のハセナワ(仮名)という人物もいた。
同族経営の人権搾取に最も加担していた人物である。
息子のタカヒトという若年の男、そしてタカヒトの右腕で同じく若年のハセナワは、業者代表の女性の思想をそのまま踏襲していて、不登校・引きこもり本人への同情の余地は一切無し、それまでの人生や人格を認めない、不登校・引きこもり当事者をあざけり見下し、根性で叩き治す、という無知で極めて偏った暴力性のある人物であった。
この息子タカヒトとハセナワも業者代表の女性と全く同じで、その目つきを見れば、およそどのような人物かを察することができたものであった。
彼らは自らのことを、はばかることなく「指導員」「○○先生」と呼ばせた。
拉致されてきた私たち若者は、「生徒」「寮生」「訓練生」「お前ら」と呼ばれた。
施設へ連れてこられ、どこにあるのかも分からない集団生活施設で、通称「指導員室」に入り、どこの誰かも分からない経歴不明の若年2人に対面して早々、不遜かつ威圧的な言葉を投げかけられ始まった現実。
雑多な大部屋での初めての夜、雑魚寝状態から天井を見上げた時のことも2度と忘れはしない。
まず1つ、あらためて書かなければならない。
それは、施設へ強制収容させられた若者に自由は一切認められていなかったということ。
24時間、何1つである。
施設の建物の外を出歩くことさえ許されず、もちろん10円玉ですら手に持つことすらなく、施設内での自由時間もなく、羽を伸ばせる瞬間など皆無という惨状であった。
しばらくは、ここが○○県のどこに位置するかも分からないし、そもそも他府県から連れてこられた若者は地理に明るくない。
自分がどこにいるのかも不明という状況の中での監禁状態であった。
24時間、1人になれる時間も皆無。
対人関係に甚大なストレスを抱えやすい私のような人間は、より一層、筆舌に尽くしがたいストレスフルな人権搾取であった。
この○○寮という名の強制収容施設の指導員室の扉に、縦棒グラフ式の通称「ペナルティ表」という用紙が貼ってあった。
この◯◯寮では、若者の一挙一投足に対して、事あるごとに、否、極めて不自然なほどに細かく、いびつなほど理不尽に、責任者タカヒトや タカヒトの片腕ハセナワらの粘着質で傲慢なチェックが入る。
また彼らは、若者同士が監視し合う手法を強要しており、若者同士ですら落とし合う敵のような関係性が常態化していた。
自称指導員のタカヒトやハセナワから、そして他の若者から何事かを指摘された際に、指摘された若者は自らペナルティ表にチェックを入れなければならず、あるいはペナルティ表を管理していたハセナワの手によっても、随時 該当者の欄がチェックで埋められていった。
そして、ペナルティ表のチェックが積もるに従って、いわゆる「ペナルティ」が課せられるシステムになっていた。
ある程度まで積もると、週末外出禁止など、あらゆるペナルティが課せられるようになっていて、ほぼ全ての若者が週末外出禁止ラインまで届くように仕向けられていたのだった。
その為、相変わらず週末も施設の建物の外にすら一歩も出歩けず、1日中、ひたすら大部屋の1ヵ所に集められて、通称「自習」という(中学レベルの)学習時間に拘束させられ、健康的な身動きと自由が一切取れないという有り様であった。
この猛威をふるったペナルティ表は、後に外部からの監査が入った時、指導員サイドが扉から一時的に剥がしていることを他の若者が確認している。
また、大部屋には監視カメラが設置されており、若者の行動は常に監視されていた。
さらに、施設の建物の玄関は開閉すると常にブザーが鳴り響く装置となっていた。
不適王